冥冥乃志

ソフトウェア開発会社でチームマネージャをしているエンジニアの雑記。アウトプットは少なめです。

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「正しい」という言葉は暴力性が高いよなあ、というポエム

世の中ど正論に溢れております。

それこそ正論は星の数ほどあっていろんな人がそれぞれの正論を持って奮闘しているわけですが、上手な妥協点を見つけられないと喧嘩になりますよね。正論が受容されずに舌鋒鋭くなった結果、テロリスト爆誕して最後まで立ってたから俺が正義とか、何それ「花燃ゆ」?な状況とか結構な頻度で見る気がします。

変えろと言われて変える人はまずいないと思ってます。「宿題やれ」VS「やろうと思ってたけどやる気無くした」と同じ構図ですよ。今ある状況ってその時々の最適解なんで、過去には相手のほうが正しかったかもしれないし(最適解という意味で)。とはいえ「正しい」が状況によって変わるのもまた確かで、対応しないと生き残っていけません。

「正しさ」は視野狭窄を起こします。「正しさ」を基準に判断してしまうと、否定する人に「あいつはわかってない」って言いやすいじゃないですか。自分が本当に正しいかどうかはあまり関係なく、自分とは相容れないものとして相手を置く関係性で物事がうまく進む気はしません。変えたほうがメリットが出るように自分たちを変えていくのが手っ取り早いし、みんな置かれた環境でそういう最適解を目指していけばいいんじゃないのかなあ、と。主張の仕方を変えるだけで進むこともあったな、と。

いずれ、私の「正しい」が次の世代の「正しい」とぶつかる日がくるんですよ。おそらく合理性の基準が違うから。その時に「あのおっさんは話にならない」状況になるのかどうか。

という、ぶつかりながらやってきたおっさんの思考。